写真館に木村氏・堀川氏が登場です!

【出逢い】キミオ・アイセック ストーリー②

 戦争が終わり、キミオさんは十九歳で結婚しました。それから船乗りになりグアム・パラオ・ハワイに出かけました。そして1963年にハワイで初めてダイビングを行いました。その当時はゲージがなく、途中でエアーが薄くなると上がってくるスタイルだったそうです。
1968年にトラックに戻ったキミオさんは、1970年にトラック政府の海洋資源の調査の仕事に従事した時に、ダイブマスター(ガイド)の資格を取得しました。そして1973年に43歳で「ブルーラグーンダイブショップ」をトラックにてスタートさせます。それも、タンク四本だけで…。その当時の様子をこう語っています。「最初にアメリカのダイバーが来たよ!午前中に一本潜るとタンクが空になるから、また春島に戻ってエアーのチャージをして午後また潜りに行ったよ‼︎」
また、その年の11月、ミクロネシアで60メートルまで潜っているダイバーがいるという噂を聞いて、フランスからクストーが夏島までやってきました。クストーといえばアクアラングの発明者で、カリプソ号で世界中の海を巡り、潜って調査した初めての人でもあります。彼は夏島に3ヶ月滞在して、トラック環礁に沈んでいる沈船を調べていったそうです。

その後、キミオさんは環礁に沈んでいる沈船を全て潜り尽くして、トラックを沈船ダイビングのメッカにしてしまいました。それを聞いた世界中のダイバー達が、キミオさんに会いに訪れるようになっていきました。クストーを始め、アメリカのJ・F・ケネディ・ジュニア、映画『タイタニック』のジェームズ・キャメロン監督、ハリウッドで有名な水中監督のアル・ギディングスや多くの俳優達など、有名人とも親しくなっていきました。大柄で恰幅がよく、悠然とした一見南の島の王様を思わせるような風貌と、実にゆったりとした話し方で人の心を包み込んでしまう、まるで海のような性格が多くの人を惹きつけて離さなかったのだと思います。
私が無人島に住むと言った時、キミオさんはこう言いました。「吉田さん、あの島は小さいよ!時には嵐がやってくるからね。その時は無理しないでいつでもホテルに泊まりなさい!ホテルを1つ買っておいたから。…お金なんていらないよ!今まであんたにはお世話になっているからね。」
また、公生さんはたいへん流暢な日本語でいつも話していました。「日本はいいところだよ!もう一度行ってみたいよ‼︎二重橋あたりを歩いてみたいよ。」と…。

ある夜、ブルーラグーンリゾートの敷地内でブルーラグーンダイブショップ25周年記念パーティーが500人くらいの現地人と外国人によって開かれたことがありました。
キミオさんは州知事と副知事の間に座っていました。私はバーのカウンターでウイスキーの水割りを飲んでいました。そのバーからキミオさんが座っているところまではかなりの距離があったんですが、私の水割りのグラスが空になっているのに気づくと、すぐにスタッフに「注いできなさい!」と指示してくれました。これには私もびっくりしました。すると今度は自分と知事の間に椅子を入れて私にくるようにと言いました。130キロの巨体を動かしながら「吉田さん、一緒に写真でもどうですか?」と言ってくれたのです。これには更に驚きました。多くの人たちが出席している中で、なぜ私を呼んだのか、分かりませんでした。
そしてパーティーの最後にキミオさんが書いた原稿を、あるアメリカ人の女性が英語で朗読しました。それにはこのようなことが書かれてありました。
「私は生涯を通じて大きな悲しみと大きな喜びを味わってきました。その大きな悲しみとは、私を4年以上、実のこのように愛してくれた愛国丸に乗っていた内田さんが、1944年2月17日に私の目の前で船と共に海に沈んでいってしまったことです。そして大きな喜びとは、その日本人の内田さんから子供の時に『負けず嫌い』という言葉を教えてもらったことです。私は生涯その言葉をただひたすら信じて頑張ってきました。それは、今考えても間違ってなかったと思います。」
その後みんなで小さなテーブルを囲んで食事をしている時に、また私を呼んで隣に座るように言いました。私にお酒を注いでくれた後、「吉田さん、あんた『負けず嫌い』という日本語知ってる?」と聞かれました。私は「はい!知っています。日本人なら誰でも知っている言葉です。」と答えました。するとキミオさんは私の目をじっとみて「あんたも縁あってトラックまで来たんだからね!その負けず嫌いという言葉を信じて頑張ってください‼︎日本人だからね。」と言いました。

その後、3年半の無人島生活を終わらせてホテルの一室に住んでいる時も、キミオさんは部屋に電話してきては「僕の部屋に来ない?もう飲んでるからね!あなたと私は日本人だからね。熱燗で一杯やりましょう!」とよく誘われました。
キミオさんの72歳の誕生日の時も、部屋に電話してきて「吉田さん!今日は私の誕生日なんだけど祝ってくれる?夕方6時くらいからホテルのパーティールームでやるから、よかったら来てね!アメリカ人も来るけど、それは気にしなくていいよ!あんたと私は日本人だからね。熱燗で一杯やりましょう‼︎」と誘われました。
私は言われるがままに会場に行くと、そこには10人くらいのアメリカ人がいました。特に紹介されることもなく、キミオさんに勧められるまま日本酒を飲んでいると、いつの間にかアメリカ人に囲まれていました。ある程度酒が回り始めた私は、英語で周りのアメリカ人に話しかけ始めました。向こうも気さくにいろいろなことを聞いてきました。ところが、会話が弾んできたあたりで私はあることに気づきました。どこかでみたことがある…と思っていた、目の前にいる3人は映画『タイタニック』の監督のジェームズ・キャメロンと出演していた役者さん達でした。キミオさんは、そのことについては一言も言わないんです!あまり関心がないようでした。

キミオさんが73歳のクリスマスの日の夕方、私が無人島から帰ってくると、ホテルの敷地内で私に手を振りました。呼んでいる様子だったのでそばまで行くと、車椅子に腰かけたまま、「吉田さん、私の体はそろそろ駄目だ!昨日まで富山の『立山』を毎晩一升ずつ飲んだよ。でもね、最後の1本はあんたのために取っておいたよ。正月は島にお客が入っているんだろう?あんたが日本に帰れなくてかわいそうだと思って、これ、持って来たよ‼︎日本人は正月にはみんな酒を飲むんだろう?正月は家に遊びに来てね。うちは餅もあるし、味噌汁も作るよ。良かったら来てね!」と言ってくれました。私はその一升瓶を持ちながら部屋に戻る道すがら、本当に嬉しかったのを今でも覚えています。
そして、年が明けた1月4日の深夜十一時四五分、キミオさんは、子供の頃から一番通った夏島と春島の間の洋上で息を引き取りました。本当にキミオ・アイセックは海の男で日本を心から愛した人でした。また、太平洋戦争のトラック大空襲での生き残りであり、沈船ダイブでトラックを世界に知らしめた偉大な『レジェンドダイバー』でもありました。
キミオさんが内田さんに4年間可愛がられたように、私もまたキミオさんに4年間可愛がられたわけです。生前、キミオさんにトラックの英雄は誰でしょうね?と尋ねると、決まって「それはISOROKU・YAMAMOTO(山本五十六)だよ!」と返ってきました。しかし、沈船ダイブでアメリカ人から稼いだお金で、多くの貧しいトラック人の面倒を見て来たキミオ・アイセックこそ、トラックの英雄のような気がします。

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