写真館に木村氏・堀川氏が登場です!

【出逢い】キミオ・アイセック ストーリー①

 時おり、黄昏時にホテルの桟橋で夕日を待ちながらぼんやりしていると、過ぎ去っていった日々の、様々な出来事が思い出されてきます。多くの思い出が明滅する中で、私が今でも鮮明に覚え、忘れることのできない思い出があります。そして、そのことが私の人生を変える転機となり、今に至らしめるきっかけとなったのです。その頃の私はまだ若く、気の向くままに転々と世界を旅していました。そして、ふと気づいた時には、赤道を中心に地球をほぼ一周してしまっていました。最後に辿り着いた島で私はある老人に出会ったのです。その老人の名が『キミオ・アイセック』であります。

1989年、私はホテルを出て湾岸線をダウンタウンに向かっていました。道が悪く、至る所に大きな穴が開いていて車は蛇行運転を繰り返しました。周りにはたくさんの南方の木々が生い茂り、枝は伸び放題になっていて、時おり車の屋根を擦っていました。たくさんの椰子の木々やバナナやタロイモ畑やハイビスカスやプルメリアなどが咲き乱れる道を抜け、やがて小さなローカルマーケットに差し掛かりました。小さな小屋が道の両側に立ち並び、パンの実やタロイモやバナナやパパイヤ・パイナップル・椰子の実・リーフフィッシュ・マングローブガニなどが売られていました。車はゆっくりと郵便局を過ぎ裁判所に差し掛かった辺りで海岸寄りの道に入っていくと、目の前には真っ青な太平洋、その右側に小さな建物が見えてきました。その周りには、数人の現地人がタバコを吸いながら立っていたり、中には車のボンネットに寝ている者もおり、それは実にのんびりした南の島の午後の光景でした。
車を降り建物に近づくと、建物は半分以上が金網で覆われており、中を覗いても午後の日差しが燦燦と降り注いでいるせいか、真っ暗で何も見えませんでした。私はドライバーと一緒に中に入り、メモ焦点が合うのを待って中を見回すと、そこには椅子に腰掛けてニコニコ笑っている一人の老人がいました。私が「Hellow!」と声をかけると、その老人は嬉しそうな顔をして「こんにちわ!」と日本語で答えました。思わず英語で「日本語が話せるんですか?」と尋ねると、「はい、少しくらいはね!」とまた日本語で返ってきました。老人と握手を交わし、ダイビングに来たことを告げると、またもや流暢な日本語で「よくいらっしゃいました!どうぞお掛けください‼︎」と言いました。
その後、その老人と一時間くらい話し込みました。昔、日本の民間人が沢山いたこと、そしてその後日本軍が来たこと、自分が隣の夏島(デュプロン島)の出身であること、今は足が悪くなってダイビングのガイドを辞めたこと、日本に行ったときの思い出、そしてトラックの沈船のこと等々。最後に老人は「今、息子のグラッドフィン(アッピン)」を呼びますから、明日からのダイビングは彼と一緒に行ってください!」と言ってくれました。
老人は大変大柄で体重は約130キロ。ゆったりとした面持ちで、とても優しい顔をしていました。一見酋長のようでもあり、また南の島の政治家を思わせるような風格がありました。また来ているアロハが実によく似合っており、そこには威風堂々とした貫禄という者も感じ取れました。しかい、私が目の当たりにしたダイブショップの建物は、あまりにもお粗末で鳩小屋のようであり、また、ホテルから乗せてもらったダイブショップの車があまりにもポンコツだったので、この老人は決して裕福でなく貧しい人なんだ!と勝手な思い違いをしてしまった程でした。
私は、初対面でこの老人をすっかり気に入ってしまいました。流暢な日本語、ゆったりとした話し方、物腰の柔らかさ、私への気配り…。さらに、この老人から溢れ出る滋味というものが、南の島の独特の雰囲気と重なり、いつしか私を虜にしたのです。この出逢いをきっかけに、何度となくこの土地に通うこととなり、ついには、1997年にこの老人に許可をもらい、トラック環礁内の無人島に住むことになったのです。

キミオ・アイセックは1927年に夏島の漁師の子供として生まれました。12歳の時に、ちょうどその頃夏島に駐屯していた日本陸軍にて運搬作業の仕事を始め、13歳の時には日本海軍の仕事にも従事するようになりました。その当時トラック環礁には日本海軍の基地があり、戦艦大和を中心とする約500隻の船が環礁内に停泊していました。
13歳のキミオ少年は夏島のすぐ近くに停泊していた「愛国丸」という巡洋艦に、小舟で椰子の実や果物などを運ぶ仕事をしていました。その時愛国丸には静岡県出身の内田さんという下士官がいました。キミオ少年が椰子の実などを持って上がっていくと、いつも内田さんは快く迎え入れてくれて、船の甲板を案内してくれたそうです。そして、まだ若いのに一生懸命働いているキミオ少年を見て関心し、帰りには必ずみかんの缶詰やヨウカンや石鹸を持たせてくれたそうです。内田さんは当時四十歳くらいでしたから、ちょうどキミオ少年くらいの子供が静岡にいたのかもしれません。
年の差のある2人の関係は約4年ほど続きました。その間に北東の水路から出入りする大和と武蔵の姿を見たそうです。二隻の船が夏島と春島の間に並ぶと、夏島からは春島が全く見えなくなったそうです。そのような光景を見て、キミオ少年は、もし戦争が始まっても日本は絶対に負けるわけがない!と思っていたそうです。
またこの4年の間に、内田さんはキミオ少年にいろいろなことを教えてくれました。日本には四季があり、大変美しい国であること、春には桜が至る所で咲き、みんなで花見をすること、東京には皇居があって、そこには天皇陛下が住んでいること等々…。当時、そんなことを教えてくれるトラック人はいなかったので、キミオ少年は真剣に話を聞いたそうです。
月日が経つにつれ、日本の戦況は悪化の一途を辿っていきます。次第にアメリカ軍の侵攻が進み、太平洋を北上しているという話を耳にするようになりました。それでもキミオ少年は日本は必ず勝つ!と思い込んでいました。1943年の終わり頃、キミオ少年は内田さんに戦争のことを色々と聞いたりしていました。その時、内田さんが彼に言いました。「いいか、キミオ。よく聞くんだ!戦争はどちらかが負け、どちらかが勝つものなんだ。これから戦局がどうなるか私にはわからない。しかし、お前に日本の言葉を太つ教える。それは『負けず嫌い!』という言葉だ。これからどんな事が起ころうとも絶対に人に負けては駄目だ!そしてそれ以上に自分に負けたら駄目なんだ‼︎そのことをよく肝に銘じておくように。」と…。すでに2人は親子のような関係になっていました。

翌年1944年の2月17日、17歳になったキミオ少年は夏島の家で寝ていました。未だ夜が明けきらない頃です。突然キミオの叔父さんが入ってきて「キミオ!早く逃げるんだ‼︎アメリカ軍が攻めてきた。」と言って叩き起こされました。キミオ少年は驚き、一気に外に駆け出して、ジャングルの中にある防空壕に逃げ込みました。アメリカ軍は、夜明け前に北東のパスから190機のグラマンで攻めてきました。
キミオ少年が防空壕に逃げ込んだ時には、親戚の者たちが先に来ていて既に中は一杯でした。キミオ少年は一番出口付近に座っていました。叔父さんが「いいか!絶対に外に出ては駄目だ‼︎アメリカ軍は空から攻撃してくる。夏島には海軍の基地があるから間違いなく攻撃してくる!」と皆に言い聞かせました。しかしその時、キミオ少年には一つのことが気になっていました。それは愛国丸に乗っている内田さんのことでした。「内田さんは今どうしているだろうか?無事でいるだろうか?」内田さんの安否が気になってしょうがありませんでした。しばらくして一斉にアメリカ軍の攻撃が、トラック環礁内に浮いている船をめがけて行われました。攻撃は数時間経っても止みませんでした。そしてついに、我慢しきれなくなったキミオ少年は、おじさんの言葉を無視して一気に防空壕を飛び出し、未だ空からの攻撃が続いている中、大きな木から木へと身を隠しながら、港めがけて駆け下りていきました。
そして、島の突端に出て海を見下ろすと、浮かんでいる愛国丸が目に入りました。キミオ少年はホッとしてひざまづきました。しかし、安堵の思いが心をよぎった瞬間でした!いきなり2発の魚雷が愛国丸に命中したのです。船は半分が大破して吹っ飛び、海の底に沈んでいってしまいました。キミオ少年はあまりの出来事に泣きじゃくり、そのまま再び防空壕に戻りました…。

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